「ママ先生✖️ライフコーチ✖️ファシリテーター」の徒然日記

ライフコーチであり、ファシリテーターであるママ先生の、思いついた徒然を不定期で綴っていきます!

教師の想定を軽々と超えていくこと 〜サークル対話の良さって?〜

ごんぎつね を終えて、あたらめて考えたこと

<サークル対話の良さって?>


一言で、

「教師の想定外の子どもの学びを生み出す、引き出す」

ということかと感じました。
いわゆる、教師の介入をとことん無くし、子どもたちが自分たちだけで話し合いをすることができるようにする、サークル対話。


その良さは、子どもたちの素直な思考を引き出すこと。

それに尽きるかなと思いました。


教師の介入がないということは、教師の意図するものを、子どもたちが探さないということ。

先生のもっている答えを見つけようとしない、ということ。
本当に自分たちの考えたことを、表出する、ということ。

 

今回のごんぎつねでは、
「最後に自分だと気づいてもらえたから、幸せ」という考えと、
「気づいてもらえたから幸せ」ということを思っていない、
そもそも「気づいて欲しい」という思いをごんは持っていなかった、

という子たちの論争が生まれたことかと思います。

 

教師の間では、「気づいてもらえたから幸せ」という
考えに至るだろう、という予想にとどまっていました。

 

しかし、クラスの子どもたちから出てきたのは、それだけでなく、
栗や松茸を持って行っていた時のごんの思いとして、


「兵十は喜んでくれているだろうか」
「兵十にまた迷惑をかけていないだろうか」
「兵十に、おっかあの分まで幸せになって欲しい」
「兵十が一人ぼっちになった寂しさは、ごんが一番よく知っている。償いを続けることで、兵十に幸せになって欲しい」
などなど・・・・

 

という、「気がついて欲しい」「お礼を言って欲しい」「友達になりたい」「受け入れて欲しい」
というような、見返りを求めるもの、

とは違う、

見返りを求めない、

「償いの本質=その人に幸せになって欲しい」

というものが、子どもたちから生まれたこと。

 

それこそが、サークル対話の価値だと思いました。

 

子どもに任せる、教師が介入しない、ことの価値。


教師の想像を超えた、想定を超えた、もっと言ってしまえば、教師の能力を子どもたちが軽々と超えていくような・・・

それを、ごんぎつねの学習を振り返り、改めて感じました。


もちろん、初めからうまくなんかいきません。

だけど、辛抱する!

少しずつ、手立てを打ち、積み重ねる!

そうすることで、確実に子どもたちは対話ができるようになっていく。

それも、実感しました。

 

子どもたちの力を信じて、教師が試行錯誤しながら

続けるか、

やはり、教師がいないとダメだ(介入が必要だ)と

諦めるか。

そこが、分かれ道だな〜っと

感じました。

 

以下、ムスメ作、「たぬき」こちらも、ママの想定を軽々と飛び越えていました、、、。

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