「ママ先生✖️ライフコーチ✖️ファシリテーター」の徒然日記

ライフコーチであり、ファシリテーターであるママ先生の、思いついた徒然を不定期で綴っていきます!

2学期、スタート!新しい学びも、スタート!

一雨ごとに、気温が下がっていき、爽やかな気候になってきました。

 

夏休みは楽しく遊び、学ぶ日々だったのが・・・。

2学期始まると一転!様々な行事の打ち合わせ・準備・スケジュール調整などで、かなりハードな日々。全くブログ記事を書く余裕がありませんでした・・・。

久々の投稿です!

 

2学期がスタートして今日で2週間。

授業は、とっても楽しんでいます。

教師が授業を楽しむのが、やっぱり、いいよなぁ・・・。と感じているこの頃。

 

7月から夏休みにかけて、じっくり読んだ『遊びが学びに欠かせないわけ』で、

私の授業観は結構変わりました。そして、まだ出版される前のある本の原稿を読ませていただいたことで、具体的にやりたいことが見えてきました。

早速、その感覚と計画を9月からフル始動し、2学期の授業をスタートさせています。

 

そしてそれが毎日、かなり楽しい!!

いきなり大きく変えるのは難しいので、少しずつトライしていますが、

その少しずつでも、子どもたちの変化が見られ、また楽しい。

 

じゃあ、どんなところをどんな風に変えたの?

というところを、実践しながら、途中経過を書いていきたいと思います。

大まかにいうとこんな感じです。

 

①自立学習リニューアル

②算数子ども先生

③対話をメインにした道徳、読み(国語)

④探究学習スタート、総合、理科、社会

 

次回から一つずつ書いていきます。

 

 

懐かしい人々に会って、自分のライフデザインについて考える

先日、中学の同窓会がありました。

卒業して、25年が経ちます。男性の年祝いの年ということで、

地元にいる女性陣が幹事になって、企画してくれました。

女性の年祝い(33才時)にも同じように同窓会やってたらしいけれど、

私はおそらく全く気が向かずに・・・参加しなかったのでした。

今回、ふと、参加してみたいな、と思い、ほぼ初めての同窓会参加。

中学の同級生で、今も付き合いがあるのは1人だけ!

他の人は、全く音沙汰なく、記憶も中学生のまま・・・

行く前は、一体、どんな顔して何話せばいいのやら。不安なくらいでした。

 

ドキドキしながらも、行ってみれば、受付のところで即、

「〇〇ちゃん!?!?うわあ〜!久しぶり!!!」

てな感じで、いきなり盛り上がったのでした(笑)

 

田舎の中学で、人数も少なく、全部で70人ほどだったのかな。

そのうち、30人が集まりました。

中学生から、みんないきなり四十路のいい大人に変身。

タイムスリップしたかのようでした。

 

中学時代は、内気で(多分)、コンプレックスの塊で(確か)、

置かれていた卒業アルバムの表情が怖くて(!)びっくりしたほどの当時の自分。

当時の印象からは多分結構変わったであろう私のことを、みんな

「わがっちゅ!!(分かるよ!!)変わんねにゃあ〜〜〜!!(変わらない〜〜!!)」

と言ってすぐに受け入れてくれました。

もしかしたら、そんなことを気にしていたのは、自分だけなのかもしれない。

 

立派な大人になった様々な友人達の、これまでの話を聞いていると、

一人一人の背景にある25年の月日を感じたのでした。

なかなか25年を感じることって、ないです。

 

友人が複数名、様々な理由で亡くなっていました。

 無事この場に集まることのできた同級生達。

何よりそれが、ありがたいことだな、と感じました。

結婚、子育て、離婚、仕事、転職、生活拠点の移動などなど・・・

30人、それぞれの背景の25年があるようでした。

 

たわいもない会話から・・・

25年の月日の流れを感じる、貴重な機会。

かなり不思議な感覚でした。

 

この不思議な感覚を、帰宅してからも、味わっています。

いろんな人生がある。

さあ、自分はこれからどんな風に生きていこう。

 

リタイヤしてもう6年が経つという恩師が、

「今、40でしょう。これからもっと色々あるわよ。」

と言っていたのが、「おお〜!」と心に沁みました。

説得力が、ハンパない。

 

幼い娘もいるし(夫も←後回し)、仕事もあるし、家もあるし・・・。

それぞれのことに必死になって、日々、生きている。

かなりの制約があるとも言える。

自分のことは、最も後回しになっている現実。

でも。

どこで、どう生きようとも、

この人生は、たった一つの、自分の人生。

私自身が、今までも、この先も、どう生きて生きたいか、

決めることのできる、人生のオーナーだ。

当たり前のことなのだけど、そういうことを、改めて感じた同窓会でした。

 

なんというのかな。

ギュッと、何かで自分をしばっていたのを、

ふっと、力を抜いて、緩めた感じ。完全に外れはしないけれど。

それが、四十路の、これまで自分が作ってきた、自分という人生なのだろう。

 

みんなそれぞれのフィールドで、それぞれに精一杯生きているということを感じたのでした。

私も、さらにアクティブに、クリエイティブに、楽しく。

今ここにいる自分自身を、思い切り、生きよう。これからも!

 

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『遊びが学びに〜』番外編2 子どもたちと一緒に遊んで、追究の入り口を楽しむ

前回書いたように、近所の姉弟と仲良くなった娘ちゃん。

ちょこっと遠出をして、帰り道は車で寝ていたというのに、

帰宅して外に彼らがいることに気づいた娘ちゃんは、チャイルドシートに座ってシートベルトをしたまま、

「お〜い!Nちゃん、ここだよ〜!」

と叫び、遊ぶ気満々・・・。

母はこれから昼寝でも・・・と思っていたのに!

さすがに3才を放ってはおけません。

子どもはパワフルです。尊敬するくらい。

 

娘が、相変わらず、「虫採りしたい!」と言って、二人は「いいよ!」と

虫採りにはまっている娘に付き合ってくれました。

虫採り網を持って、3人であっちへこっちへウロウロ・・・

 

東北の夏は、日中は暑くなるけれど、朝晩はとても涼しいです。

1日の気温差が激しくて、初めは体がびっくりしていました。

でも、慣れれば最高に過ごしやすい夏です。

遊んでいる時間は最も暑い時間帯だけど、30度越えで日差しは暑いけれど、日陰に入ればとっても爽やかな風が吹き、気持ちがいい。外で十分に遊べる気候です。

 

今回は、アゲハやモンシロ、モンキを始め、様々な蝶や、赤、しおから、オニヤンマなどのトンボがわんさか飛んでいて、子どもたちは大興奮。

コオロギやカエル、アゲハの幼虫、青虫も。

 

モンシロチョウかと思って捕まえてみると、

羽の模様が違うんです!!

面白いな〜、と思います。

写真は、一種類しか撮るのを忘れてしまった!惜しい。

 

林の横の道を歩き回って、虫だけでなくいろんな木の実にも注目。

子どもの頃から変わらずある林。あんまり気にして見ていなかったんだなあ〜と

思いました。

 

柿、栗、ブラックラズベリー、・・・

娘が見つけた松ぼっくりの上には、大きな20Mほどの松の木が。

こんなにいろんな種類の木が、この林にはあったんだ。

子どもたちは、持っていた虫採り網の柄を伸ばし、少2のお姉ちゃんが

木の実を採っていました。

まだ小さいイガグリを落とすと、

トゲトゲを慎重に触り、手のひらに乗せたり、

トゲを1本つまんで持ち上げたり。

娘も真似してやっていました。

「栗、入っていないかな?」

とお姉ちゃんがサンダルで踏みつけるけど、

まだまだ小さいイガグリは、しゅーんと小さくなってしまった。

 

「木苺だ!」

と少1のお兄ちゃんが見つけ、紫に熟した実を人数分採ってみんなで食べてみたり。

「うわあ、甘い!」

私も、子どもの頃、食べたっけなあ。

娘は、「いやだ。」と食べなかったら、2人は笑ってた。

 

いつの間にか、木々を、木の実を探す目で一生懸命にみんなで観察して歩いていた。

すると、大きな黄緑の実がたくさんなっている木を発見!

「何だろう!?梅かな?」

一見、身は本当に梅みたい。でも、梅は時期じゃないよなあ。

採ってみると、少しベタつく感じの実。

そして、匂いを嗅いでみると、私が好きな渋いアロマのような香り。

何だろう!?

こういう時は母(ばば)に聞くのが一番!ということで、

みんなで走って家に戻り、(娘も必死に2人を追いかけてた。「はや〜い!」って言いながら。)

母に尋ねた。

 

すると・・・!何と、くるみだった!!

「へえ!!」と少2のお姉ちゃんの目が輝いた。

「その緑の皮の中に、硬いクルミがあるんだよ。」

母が言うので、俄然見て見たくなった私は、包丁を取り出して、

皮をむいてみた。

すると、本当に、硬い大きな身が入っていた!

少2のお姉ちゃんは、

「すごい!これ、夏休みの宿題に書こう!」

と嬉しそうだった。

 

安全を見守るだけのつもりが、私も一緒になって夢中になって遊んでしまった!

 

面白い!ここは、遊びの宝庫だ。

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『学びが遊びに・・』番外編)夏の田舎暮らしで子育てについて考える

『遊びが学びに欠かせないわけ』では、

「子どもが遊べて探索できる安全な場所や機会を見つけるか、作り出す」

と、周囲の環境を、子どもたちが自由に遊べるよう、大人たちがつながりあい、積極的に作っていくことを勧めています。

 

今、実家に帰省して3日ですが、娘と一緒に散策したり、虫採りをしたりして遊んでいます。

娘念願の、浴衣を着て、お祭りに行く、というのも叶いました。

様々な、普段はできない経験をしては、遊んでいるのですが、

この3日間で、娘にとって、最も充実しているんじゃないかなあと感じたのは、

実家の近所の、子どもたちと一緒に遊んでいる時。

娘は3歳、近所の子たちは小1(男子)と少2(女子)の年子の姉弟

 

2人も、娘をすぐに受け入れ、一緒に遊び始め、

娘が、「虫採りしたい!」と言うと、「いいよ!」と3人で楽しそうにワイワイあっちへ行ったりこっちへ行ったりしながら虫採りをしていました。

 

見ていると、娘はやはり、少2のお姉ちゃんのことをとても意識して、

あとをついて行ったり、横にぴったり同じ姿勢でくっつき、真似して、

お姉ちゃんの一挙手一投足から学んでいるように見えました。

しゃべり言葉も真似し、すぐにいろんな言葉を覚えていました。

 

ちょうを追いかけたり、トンボを捕まえたり、オニヤンマを見つけて興奮したり、

コオロギを3人で必死に捕まえようと奮闘したり、植えられているけど忘れられているシソの葉でお店やさんみたいにして遊んだり、畑にかぼちゃがなっているのを見てびっくりしたり。

 

娘は全神経を使って、2人のお兄ちゃんお姉ちゃんを意識して、

一緒に楽しんでいました。驚くことに、一生懸命に二人を見て、真似したり、合わせて喋ったりすることをとても楽しんでいる様子でした。

2人の子たちも、とっても優しくて、すごく娘のことを気遣って遊んでくれていることも感じました。

そしてもちろん、3人ともとっても楽しそう!!

こんな視点で、近所の子たちの遊びを見たことがなかったので、新鮮そのものでした!

 

 

普段、保育園で異年齢交流を行なっている娘にとっては、

それよりも少し大きいお兄ちゃんお姉ちゃんは、新鮮だったろうし、

いつもよりやることも大人っぽくて、面白かったんだろうなあ。

虫を捕まえるのもうまいし、おしゃべりも少し違うだろうし。

とにかく、興味津々なのが、娘の表情からわかりました。

半ば興奮状態でした!

異年齢で一緒に遊ぶことは、とっても自然でした。

 

娘にとっても、お兄ちゃんお姉ちゃんにとっても、この3人での遊びは、

学びにあふれていると感じました。

 

ここに住んでいて、毎日彼らと遊べるとしたら・・・

娘の成長はもしかしたらもっともっと早いかもしれないなあ・・・

とふと思いました。

 

これもまたびっくりしたことですが、

近所のその子たちは、普通に、実家の玄関に入ってきて、「何してるの?」

と言います。

そして、全くそれが普通であるように、私の母や弟のお嫁さんは、

「入れ入れ、枝豆茹でたから食べな。」

と招き入れ、一緒にテレビを見ながら枝豆を食べていました。

 

私はびっくりしたわけですが、

考えてみれば、こんな光景は、

私が子どものころはふつうでした。

 

そんなご近所のつながりが、ここでは今だに存在する。

すごいなあ〜!!と思いました。

 

こういう環境だからこそ、子どもたちはのびのび遊び、育つことができる。

ああ、いいなあ〜。。。と思うと同時に、

私が住むまちでも、まずは私自身が積極的に、ご近所さんと関わり、

子どもの成長にとって良い環境づくりをして行くべきだと実感しました。

 

あと一週間、娘と一緒に田舎暮らしと子育てを満喫して、楽しみます!

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1学期後半戦を、リフレクションする〜『遊びが学びに欠かせないわけ』から〜

夏休みに入り・・・実家に帰省しています!(パパを一人家に残し・・・)

実家って・・・最高ですね!!!

この開放感!!そして気の使わなさ!?

嫁に出てみると分かる感覚と言うのでしょうか。

両親もすでにリタイアしているので、お気楽趣味三昧の日々にお邪魔しており、

孫とお気楽娘の相手をしてくれます。

幸せ〜!

娘も、家とは違う顔を覗かせてみたり・・・

面白いです。

 

さて、ようやく、1学期後半戦を、落ち着いて振り返ることができます。

ふと頭に浮かぶことを書いてみます。

 

 

☆『学びが遊びに欠かせないわけ』視点から振り返る

 

 この7月は特に、この本からかなりの影響を受けていました。

心理学の実験や調査で明らかになった「学び」と「遊び」の関係。

サドベリースクールの実際や卒業生の調査。

どれもとても興味深く、軽い衝撃を覚えるものばかり。

 

7月は本当に、忙しい日々でした。栄養ドリンクを毎日飲んでいた・・・。

この状態がまずはおかしいと考えるべきで、反省を生かして変革して行くべきだなあ〜と思っています。 

「どうしてこんなに忙しいのだろう?」

サドベリー・バレースクールと実際(日本の公立校)を比較すると一番に感じられたのは、ここです。

 

以下、引用です。

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「責任感は他者との関わりなしでは育ちません。責任能力を育てたいなら、責任感をもてる自由を提供しなくてはなりません」

「自分自身で成長を導き、世界を自分で発見できるようになることを可能にすること」

「不確実な時代の失業に対する最も良い対策は、親や教師に駆り立てられるのではなくて、「自主的に行った経験を通して身につける資質」だということが真実」

「子どもたちは、学校の中にいようが外だろうと、自由度を失い、よりコントロールされ、自ら始める冒険は奪われます」

「人の特性を育成しようとするときに、最も確実な方法はそれをすでに持っているかのように扱うこと」

「子どもが遊べて探索できる安全な場所や機会を見つけるか、作り出す」

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今の公立学校の実際は、

(公立小学校に努めて12年目になるわたしの個人的な見解ですが)

「責任感をもてる自由」

「世界を自分で発見できる」

「自主的に行った経験を通して身につける資質」

「自ら始める冒険」

というのは、まず皆無ではないかと感じます。

実は、どこの学校でも、おそらく、それらを目指して四苦八苦しながら研究しています。ですが、そんな環境を作ることができない最も大きな原因が、この多忙さではないかと思うのです。

 

公立校ではまず、教科書をカバーすることが当たり前だとされています。

この「教科書のカバー」というのが曲者で、低学年はそうでもなかったと思うのですが、中学年くらいから、実は、かなりの量があります。(脱ゆとりから・・・?)

公立小学校では、教科書を使用した授業の他にも、様々な学校行事や学年行事、それに向けた準備、練習、食育に安全教育、保健指導、英語教育、読書教育、奉仕活動、児童会活動・・・・

挙げればきりがないほど!?様々なことを授業時間を使ってやっています。

それらと、学習と、時間をうまくやりくりして、計画を立て、進めています。

なんとかこなす、で精一杯になっている若い先生がどれだけいることか。

そして、そんなこんなしていると、「時間が、足りない!」というのは普通に起こってくるのです。

 

そんなにてんこ盛りに詰め込まれた予定がある中で、どうして子どもたちに、

「責任感をもてる自由」

「世界を自分で発見できる」

「自主的に行った経験を通して身につける資質」

「自ら始める冒険」

を提供できるでしょうか。

いやいや、無理・・・!!!というのが、本音のところ。

 

障害は大きいな〜、と思います。

でも、それが一般的なのだから、なんとかその中で、

「子どもが遊べて探索できる安全な場所や機会を見つけるか、作り出す」

ということを、模索していきたいな〜、と心底思います。

 

この7月は、こんなことばかり、考えていました。

 

サドベリーバレースクールでは、決まったカリキュラムなどはなく、

子どもたちは言ってみれば、気の向くまま、遊んだり、興味のあることをやったりするのだそうです。

思う存分、好きな遊びや物事に熱中し、当たり前のようにそこにいる他者(異年齢)と関わり、一緒に活動する。

ゲームなどで年長者から多くを教わり、年少者には教える立場で責任感を身につける。

連日、朝から晩まで好きな物作りや実験に熱中する、というようなことも。

卒業生は、興味・関心をそのまま仕事にし、クリエイティブな分野で活躍している人が多いそう。

読めば読むほど、

「何!?その素敵な学校。」

と驚き、現実との違いを考えてしまいました。

よく、「好きなこと」と「仕事」は一致させるのは難しい、みたいな話を

聞いたことがあります。が、ここでは違う。「好きなこと」をそのまま「仕事」に生かすのが当たり前。 

 

そして、自分の授業への意識に、変化が生まれ始めました。

 「モヤモヤ感」というか、「違和感」というか・・・

 

昨年度から、

『子どもたちの「自由度」を高めれば高めるほど、「主体性」も高まる』

と感じ、様々に工夫しながら授業づくりをやってきていました。

 

が、この本を読み始めてから、授業中に、

「いやいや、まだまだ、全然だわ!」

「結局、私が指示してやらせている活動のいかに多いことか。これじゃダメだ」

というような感覚が生まれ始めました。

子どもたちの反応や動きも、今までとはちょっと違った視点で見るようになり、

変わらない様子なんだけれど、私自身がモヤモヤしたり。

今の自分の考え方、やり方を、根本から見直さなくては。思いました。

 

そして、それに伴い、(かなり影響を受けて!)ちょっとずつ、

学習活動を変化させてみたりもしました。

 

次は、それについて、具体的に書いてみたいと思います。

 

湯沢(秋田)の、絵燈籠まつり!

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『遊びが学びに欠かせないわけ』第10章 「最悪の母親と信頼にあふれた子育て」

「責任感は他者との関わりなしでは育ちません。責任能力を育てたいなら、責任感をもてる自由を提供しなくてはなりません」

「自分自身で成長を導き、世界を自分で発見できるようになることを可能にすること」

「不確実な時代の失業に対する最も良い対策は、親や教師に駆り立てられるのではなくて、「自主的に行った経験を通して身につける資質」だということが真実」

「子どもたちは、学校の中にいようが外だろうと、自由度を失い、よりコントロールされ、自ら始める冒険は奪われます」

「人の特性を育成しようとするときに、最も確実な方法はそれをすでに持っているかのように扱うこと」

「子どもが遊べて探索できる安全な場所や機会を見つけるか、作り出す」

 

ここまで、読み進めてきて、明らかに自分に変化が生まれたことを感じる。

途中で、リフレクションにも書いていたけど、自分の授業に対する違和感を感じていた。それは、まだまだ、私が指示してやらせている学習が多いと言うこと。

もちろん、内容は結構工夫しているつもり。でも、でも、それにしても、だ。

 学び方を身につけさせるという考えは、間違っていないと思う。

しかし、その割合を、もうそろそろ減らしていく段階に来ている。

 

そして、今、変化と感じていることは、自分の授業を、根本から見直したいという思いが生まれたことだ。

つまりは、この第10章のラストに描かれていた、

「子どもが遊べて探索できる安全な場所や機会を見つけるか、作り出す」

ことに、もっと(これまでも考えていたつもりだけど)真剣に取り組みたいということ。

筆者は、これは、現在の公立等の学校では無理だと言っている。

サドベリースクールや、ホームスクーリングや、アンスクーリング、

そして、地域のコミュニティづくりがそれに当てはまると言っている。

しかし、私は、今の自分の立場で、ホーム(一、公立校教員としての立場)で、

ここに挑戦していきたいと思う。

 

それは、訳者の吉田さんもあとがきで提起している。

可能だと書いてくれている。私も、そう信じて、挑戦していきたい。

 

ここで感じた違和感と変化をそのままにもち、2学期からのプログラムデザインを練りたい。このデザイン作業が夏休みのワクワクする自分自身のチャレンジになりそう。

そして、同じような志をもつ仲間がいる!本当に素敵なこと。

ますます情報交換しながら、一緒にやっていきたい。

 

 

『遊びが学びに欠かせないわけ』第9章「なぜ異年齢の混合が子供の自己教育力を飛躍的に伸ばすのか』

この本について感じたことは、いつもはFacebookに書いていたけれど、なんだか長くなっちゃったので、こちらに書きました。
 
まだ年少者の側からの方しか読んでいないが、共感しないわけにはいかない事例がたくさん!!
「今日誰かの助けがあってできたことは、明日一人でできるようになる」を遊びで練習し続ける
「年長者のすることを観察し続けることで学ぶ」
「ケア(気遣い)と精神的なサポートを受ける」
確かに・・・!と思わず唸ってしまうことがたくさん。
娘の保育園は、異年齢集団での活動をとても推奨している。
何よりも遊びを大切にするという保育方針に、異年齢交流は欠かせない要素として入っている。
娘は、お兄ちゃんお姉ちゃんが大好き。
おかげで、保育園以外の遊び場でも、大きいお兄ちゃんお姉ちゃんにくっついて遊んでいる。
見ていると、どちらかというと、娘の方が積極的に寄って行き、寄られた方の子ははじめよそよそしい。でも次第に、一緒になって遊び始める。
すごいなあ、保育園の影響・効果だよなあと、いつも思っていた。
1歳にならないうちから保育園に入れてしまったことは、少し負い目があった。
しかし、ず〜っと娘は、赤ちゃんから異年齢で遊び、のびのび育っている。
他者と関わることに全く物怖じしない。
まだ3歳だけど、わがままをしていたら、仲良く遊べないことも、すでに体験的に知っているように見える。
いやあ、すごい。
 
クラスや学校のことを考える。
異年齢の交流は、隔月〜月一の縦割り遊び活動の時。
そして、1年生と6年生のペアクラスでの活動。
どちらもすごくいいなあと思ってきた。
しかし、人数が多い。という印象。そして、やはり隔てられている、という印象だ。
縦割り活動は、もう、全体の人数が多いからしょうがないのかもしれないが、縦割り班は
40人弱いる。それが、一斉に同じことをしてみんなで遊ぶ。楽しそうなんだけど、
多いなあ・・・といつも思っていた。
もちろん、この本の中で、人数について言及しているところはないのだけれど、
効果を感じられる場面というのは、多くても10人程度の集団だったように思う。
インドのPCの使い方を自己教育していく少年たちは、結果的に200人ぐらいの子たちに波及して行ったが、あれは、一斉に、ではなく、まさしく波及、なので、実際は、1対1〜もう少し多いレベルなのではないだろうか。
 
私は今の学校に来て3年間、ずっと低学年を担任していた。(今は抜け出して4年。)
ペアクラスでの活動、数年前までは、1年生と6年生が同フロアに教室があり、すごくいいなあ〜!と思っていた。そして、ペアの子が決まっており、1対1の関わりが生まれていた。
(それも今年度は違うフロアになってしまった)
 
入学当初から1〜2ヶ月ほどは、頻繁に交流があり、休み時間なども一緒に遊ぶ様子が見られた。しかし、1年生が学校に慣れてくると、サーっと波が引くように、交流しなくなって行った。ああ、もったいないなあ、と感じたことを覚えている。
6年生は、1年生を「お世話している」という感じが主で、「お世話」する必要がなくなったら、自分たちでつるんで遊びたくなる、のかもしれない。
 
なので、異学年交流は、現状では、仕組まないとほとんど皆無、難しいものになってしまっている。
オランダのイエナプラン教育では、異学年クラスが普通であり、すごいよなあと思う。
その教育効果をしっかり認め、制度として組み込んでいる。
サドベリースクールでは、異年齢で一緒に過ごすのが当たり前で、自然と一緒になって遊ぶ。
それが自然な姿なんだろうなあ。
 
さて、そんな現状で、一体何ができるんだろう。
同じ年齢の子たち30〜40人弱が一斉に集まり、当たり前のように過ごす環境。
一斉で教師主導で同じ内容を教え込む、その目的のために組まれたグループ。としか思えない。
 
教室内で自己教育力を高めていく環境設定について、やはり追究していきたい。